いのちを語る21 菊池恵楓園で法要
 26日、午後1時から菊池恵楓園のやすらぎ会館で曹洞宗熊本県主催の大般若法要が修行されました。これは、夏と冬の年2回、園を訪問し行っているものです。
 2月は、入所者のご多幸を御祈願する法要、夏は亡くなられた方々のご供養であります。僧侶20数名が厳粛な法要を勤め、その後、法話をします。入所者の方々も約25人ほど参列されておりました。
 法要後には、入所者の皆さんとお茶を飲みながら懇談をします。
さて、このブログを読んで下さった貴方はこの法要についてどんな御感想をお持ちでしょうか?
 ①曹洞宗はいいことやってるな・・・
 ②当たり前のことだ・・・
 ③くだらんことやってるな・・・
 ④良い事だけど他にもやることがあるのでは・・・
色んな考え方があると思いますが、私は④の考え方であります。確かに、療養所を訪問して法要をし入所者の方々と懇談をすることは良い事ではあります。しかし、それだけで終わったのでは何にもならないと言うことです。
 今、私達に必要なことは入所者の方々が偏見と差別から解放されて自由に出かけることが出来て故郷へも何の気兼ねもしないで帰れる社会状況を創るための啓発活動を行うことなのです。
 そのことを忘れてしまったら、宗教者としての先輩方が行ってきた「慰問布教」を行っていることに過ぎないのです。
かつて、宗教者の中には、療養所に赴き「お国の為にも皆さん方のためにもこの療養所で暮らすことが一番良いことだ。ここで暮らして来世には極楽に・・・天国に生まれ変わろう・・・」などと間違った布教活動「慰問布教」をしてきました。それと同じことをやっていることになると言うことです。
 映画「新あつい壁」の製作に協力すると言うことは即ち「啓発活動に取り組む」ということなのです。
 

 
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【2007/02/27 00:56】 | いのち | トラックバック(0) | コメント(0)
映画「新・あつい壁」の上映会
 新あつい壁の宇土市で上映会を6月10日(日)の午後2時頃から開催することになりました。
 市民会館の行事予定を見ながら検討した結果です。
 多くの市民に見ていただきたいと思います。
【2007/02/25 09:30】 | 新あつい壁 | トラックバック(0) | コメント(0)
いのちを語る⑳人間回復への闘い
 昭和37年9月14日、こうしてBさんは死刑台の露と消されたのです。人間として扱われること無くボロギレのように扱われて無念の死を遂げたのです。
 ハンセン病患者、元患者の方々は、偏見と差別の為に一人の人間として生きることさえ許されなかったのです。だから、私も敢えて「人間回復への闘い」と言うのです。
 隔離された療養所の中で生きる希望の一つが愛する人と出会い支えあって生きていくことでした。
 菊池恵楓園のEさんは60代半ばの女性です。小学生のときに発病して入所、プロミンを注射したところ忽ち完治したそうです。後遺症は手の指先がほんの少しだけ曲がっている程度で殆ど気がつかない程度です。しかし、「らい予防法」には退所規定がありませんので故郷へ帰ることは許されませんでした。
 療養所の中で勉強し、高校は岡山の長島愛生園の中の高校へ行き卒業後、再び菊池恵楓園に帰ってきたそうです。そして、21歳の時に愛する人と巡り合い結婚、そして妊娠。普通の夫婦であれば当然の喜びを分かち合う出来事ですが、園内で出産することは許されませんでした。
 Eさんは「産むことは許されないと分かっていましたが、ひとりの女性として『妊娠』という体験をしてみたかったのです。一日でも長く愛する人との間にいただいた小さな命をお腹の中で育てたかった」と話してくれました。
 そして、4ヶ月目に入る前に園長先生から呼ばれて堕胎を勧められました。誰もがそうしていましたから当然のことと受け止めて手術台の上に上ったそうです。麻酔が切れて看護婦長さんから「今、赤ちゃんが下りましたよ」と言われた時に自分のお腹に宿った小さな命を奪ってしまったことの罪と悲しみで涙が溢れ泣き続けたそうです。
 らい予防法と優生保護法は、ハンセン病者、元患者に対して出産を許さなかったのです。
遺伝もしない、感染も極めてしにくい、感染しても発病する人はまれであり。薬で直ぐに治るようになったのにも関らず、避妊手術、断種手術、堕胎手術が当然の如く行われたのです。
 Eさんは「あの子が生まれてきていたら40代半ばになりますからそれくらいのお父さんやお母さんをみると『こんな立派なお父さんに、或いは、お母さんになっていたかもしれない。こんな可愛い孫ができていたかも知れない』とまた涙が出てくるんです」と話してくださいまし
た。
 国のハンセン病政策は、ひとりの女性として、母親として生きる権利さえ奪ったのです。
 先頃、表面化した「胎児標本」の問題は、堕胎させた胎児の体をホルマリン漬けにして標本として保管していたものです。人間として許される行為ではないと思います。
 人間回復への闘いはまだまだ続きます。
 
【2007/02/22 17:48】 | ハンセン病 | トラックバック(0) | コメント(0)
映画「新あつい壁」の撮影が終わりました。
 一昨日(19日)に中山節夫監督から電話があり、撮影が終わったそうです。いよいよ、編集に取り掛かり三月中には完成です。
私達、実行委員会はまだまだ資金の調達が半分程度しか達成できておりませんのでこれからもうしばらく奮闘しなければなりません。
 友人、知人に千円の製作上映協力券を進めていただきますようお願い致します。
【2007/02/21 01:10】 | 新あつい壁 | トラックバック(0) | コメント(0)
いのちを語る⑲遺骨が語りかける望郷の思い
 全国には13の国立ハンセン病療養所と私立の2療養所があります。
私は、菊池恵楓園、鹿屋の星塚敬愛園、奄美楽泉園、東京の多磨全生園、草津の栗生楽生園、御殿場の駿河療養所の各寮要所を訪問しました。
 療養所の納骨堂にお参りしますと亡くなった方々の御遺骨が小さな骨壷に入れられて祀られています。その骨壷の表に殆ど二つの名前が書き込んであります。一つが本名で一つが園での名前(偽名)であります。
 ハンセン病に対する偏見と差別から家族や親戚を守るために隣近所に分からないように入所した人、無理やり入所させられた人達は、園に来ると新しい名前を付けられました。
 時には死んだことにしてお葬式を出した留守宅もあったのです。例えば、入所した息子が療養所に入所したことを隠す為に「息子は親戚に遊びに行っている時に川で溺れて死にました」という嘘を言って、空の骨壷を用意し、お寺さんを頼んでお葬式を出します。当然、本人は死んだことになりますから家族や親戚をハンセン病差別と偏見から守ることと引き換えに(故人)になって療養所で一生を過ごすことになるのです。
 御遺骨の二つの名前は無言の内に郷愁の思いを語りかけてくるような気がします。
 今、生きておられる間に自由に故郷へも何処へでも安心して行ける社会環境を作り出すことが急務であります。その為にも「新あつい壁」の完成させて啓発活動に努めたいのです。
【2007/02/19 10:08】 | ハンセン病 | トラックバック(0) | コメント(0)
映画「地球交響曲」
今日は、午後二時からガイアシンフォニーの上映会でした。私は、「美しい地球と未来と夢と希望を子供たちに」と言うスローガンを立てています。
 温暖化、水質汚染、大気汚染、土壌汚染など様々な環境問題が発生しておりますが子供達の将来を考えると何もせずに傍観することはできません。 しかしながら、多くの人達は「よそ事」でしかないようです。今を生きる私達大人が自分自身の問題として考え行動することが必要です。
 特に地球温暖化の問題は緊急かつ重大な問題です。この冬異常な暖かさで季節が狂ってしまっています。新潟や福井、青森、秋田など北陸地方でも雪が異常に少なく新潟は雪の無い冬だと言うことです。
 熱帯地方の生物が北上し続け熱帯魚が九州近海でも見られるようになってきました。やがて、マラリアを媒介する蚊も上陸してくることでしょう。米や野菜などの農作物もこれまでの種類が育たなくなる可能性も大いにあるのです。そして、それは食糧危機となり、旱魃により水不足を招きそれは新たな戦争の原因となるでしょう。
 人々が自覚し行動を起こすときは既に来ているのです。
【2007/02/18 21:17】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
いのちを語る⑱「無念の死」を黙視することはできない
 Bさんはこうして国家の名の下に「合法的に」命を奪われたのです。ダイナマイトを投げ込んだ犯人として、Aさんを惨殺した犯人として「汚名」を着せられて「無念の死」を遂げたのです。
私は、この事件について知ってから、地元の熊本日日新聞社の資料室に出かけて行き、当時の報道記事を読みましたが、「冤罪では?」という内容の記事はありませんでした。
私は、ひとりの宗教者として人間としてこの事件を黙視することはできないのです。そんな思いを抱いている時に、中山節夫監督とBさんの教誨師であった坂本克明牧師から「一緒に映画を作ろう」という相談があって映画製作に取り組んでおります。
 療養所の入所者の方々の平均年齢は80歳になろうとしています。まだまだ、偏見と差別はこの方達が故郷へ帰りたい思いを叶えさせてはくれません。「せめて死んでからは故郷の地に眠りたい」というささやかな願いさえも叶えさせてくれない現実があるのです。
 入所者が詠まれた歌に「もういいかい 遺骨になっても まーだだよ」というのがあります。あまりにも悲しすぎます。
どうか、このブログを読んでいただいた方はご協力いただきますよう心からお願い申し上げます。
【2007/02/16 09:47】 | ハンセン病 | トラックバック(0) | コメント(0)
いのちを語る⑰「不公平裁判」で死刑判決そして刑は執行された
 Bさんはこうして有罪へと追い込まれて1953年8月29日、出張裁判で死刑判決を受けました。9月7日、福岡高裁に控訴、5回の出張裁判後に控訴棄却、原審判決通り死刑判決が下されました。
 この裁判の過程で同じ病気に苦しむ全国の療友はBさんの無実を信じて全国ハンセン病患者協議会を中心に公正な裁判を要求して立ち上がりました。この裁判では、
①被告の人間性や生命が、ハンセン病者であるが為に軽んじられている。
②人間の生命はたとえその人がどのような境遇におかれようとも、何にもまして尊い。仮にB氏が罪を犯していたとしても、不完全な裏付けで尊い生命を奪うことは人道上妥当ではない。
③死刑という極刑はハンセン病患者への見せしめの意図がある。
 以上の三点をもってこの事件を重視し、人権のためのみならず裁判の公正と名誉のために世論に訴え、民主団体や文化人にも援助を求め、乏しい中からカンパを出し合って援助と裁判の費用を集めました。そして、9月12日、最高裁に上告しました。
1956年4月と1957年3月の二回口頭弁論が開かれましたがBさんや支援者の期待は裏切られ8月23日、上告棄却死刑が確定したのであります。
 弁護団は直ちに「不当判決」を弾劾し、再審請求をしましたが1962年9月13日に再審請求は退けられ、その翌日の14日、家族にも弁護団にも、本人にさえ知らせずに早朝より福岡拘置所に移送し、その日の午後、死刑が執行されたのです。
 私は熊本刑務所の教誨師を務めておりますが先輩の教誨師より死刑執行の当日、Bさんを福岡拘置所に移送し死刑執行に立ち会った元刑務官の話を聞くことが出来ました。
 当日の朝、突然にBさんを福岡拘置所への移送命令が来たので、上司に対して「家族にも誰にもしらせないでこんなことはおかしい」と抗議したが「職務命令だ」と移送を命じられた。当時の国道三号線のガタガタ道を走って昼頃、福岡拘置所に着いた。しかし、Bさんは拘置所の中へは入れてもらえず外で待たされた。そこで拘置所の刑務官が「これでお別れですね」と声を掛けると「転勤されるんですか」とBさんは尋ねた。刑務官は「いや・・・」と答えた。それを聞いたBさんは「死刑執行」を悟ったのか真っ青になった。そして、午後1時、死刑は執行されたそうです。この話は、この刑務官が家族にも誰にも語ることなく心の奥底に仕舞い込んでいたものを死ぬ前に尊敬する教誨師の先生に敢えて話されたのだそうです。
 この話をブログに書く事を私自身も躊躇しましたがBさんの命が軽く扱われたという事実を考えるとBさんの名誉の為にも書くべきと判断しました。(実際は、もっと生々しい証言ですが読むに堪えない、聞くに堪えない内容になりますので省きます)
 (参考資料)菊池恵楓園入所者自治会80年の軌跡「壁をこえて」
 
【2007/02/15 01:09】 | ハンセン病 | トラックバック(0) | コメント(0)
いのちを語る⑯いのちはこうして裁かれた
 Bさんは、拳銃で腕を撃たれて重症を負いましたがまともな手当てを受けることもできないまま取調べは行われました。
裁判の中では「自白した」ことになっていましたが文字の読み書きができないBさんにとっては調書に書かれている意味は全く理解できなかったそうです。文字の読み書きができるようになったのは、後に刑務支所に拘置中に刑務官の指導を受けてからのことでした。
 凶器は最初は「鎌」ということでしたが、後に鑑定人によって「短刀のようなもの」に訂正されると、どこからか見たこともない包丁が持ち出されてそれが凶器とされたのです。
 そして、その凶器である包丁をBさんがどこで手に入れたのか、どこで発見されたのかさえ明らかにされませんでした。また、血液も発見されていないのです。この点について鑑定人は「水で洗えば血は落ちる。どこかの池で洗い流したのだろう」という鑑定とは言い難い「推量」によるいい加減な「鑑定結果」でそれを裁判官が証拠として取り上げたのです。
 さらに、Bさんの着衣からもBさんが拳銃で撃たれて負傷したときの血液以外は他の血液は発見されませんでした。殺されたAさんの遺体には数箇所の刺し傷があったのですから当然、犯人は返り血を浴びているはずなのです。この点も明白な誤りがあります。
鑑定書には、「不潔なのでよく鑑定できなかった」とよく調べれば被害者の血液の付着が確認できただろうと思わせるような文章であったのです。これが、鑑定人の「鑑定書」と言えるのでしょうか?
 「不潔だからよく鑑定しなかった」こんなことが許される道理はありません。ここには、「らい患者だ」という差別と蔑視の意識があからさまに表れています。
 もうひとつ、「殺人犯」にしたてる証拠として採用されたBさんの伯父伯母の証言があります。
 Bさんは、Aさんが殺害された次の日の夜、ひそかに伯父伯母の家を訪ね伯父に「やって来たよ」と言ったそうです。その「やって来た」という言葉は「刑務所から逃げてきた」という意味で言ったのが裁判所は「殺して来たよ」という判断をした。この証言については、後に伯父伯母が「そんなことは言っていない」と申し立てたが聞き入れられませんでした。
 Bさんが逃走中に地区のあちこちで泥棒が入ると言う事件が発生し犯人は逮捕されました。この犯人は「Bさんが犯人と思われるだろうから濡れ衣を着せれば良いと思ってやった」と証言しています。
 Aさん殺しもこの泥棒と同様にBさんに濡れ衣を着せることを考えていたとも考えられるのです。
こうしてみますと、警察も裁判所も周囲の人間も「犯人はBだ。Bを犯人にしよう」という意識が見てとれます。  つづく
【2007/02/12 16:55】 | ハンセン病 | トラックバック(0) | コメント(0)
いのちを語る⑮脱走・・・そして殺人犯に
 菊池恵楓園内に設けられた刑務支所に無実の罪で収容されていたBさんは、実家に残してきた幼い娘さんのことや母親のことが心配でなりませんでした。彼の手記によると、この娘さんは、恋愛結婚した最初の妻との間にできた子であり、妻子を愛していたそうです。ところが、妻の家族がBさん一家の貧しさを疎み無理やり引き裂くように別れさせたのだそうです。別れさせられた後もこの妻とは度々会っていたそうです。
 昭和27年6月16日の朝、洗濯中に、我が子に会いたい、家族に会いたい一心で開いていた裏木戸から抜け出したのです。しかし、看守はハンセン病患者には近寄りたくなかったのでしょう。追いかけて来なかったそうです。
 我が家の近くに行くと、警察の厳しい警戒が敷かれ、家に近付く事はできませんでしたが「可愛い我が子と母に会うまでは捕まってなるものかと」頑張りました。
 そして、7月7日、開墾問題(注①)の会議に出かけたAさんが山道で惨殺体で発見される事件が発生しました。Bさんの手記によると逃げ迷っていたのでこの事件のことは全く知らなかったということです。
 この殺人事件が、「逃走中のBが恨みで殺したのに違いない」という憶測が警察や村人達の心の中に広がって行きました。
 何も知らないBさんは、12日の朝、自宅から100メートルほど離れた畑の小屋の中に身を潜め家に近付く機会を狙っていた時に警察官に発見され包囲されてしまいました。村人達も集まってきて、母や弟、妹の青ざめた顔もありました。Bさんは夢中で小屋を出ると崖を飛び降りて畑の中を逃げました。
「あにさん、あにさーん」と言う妹の声が聞こえたのと同時に「パンパーン」と銃声が聞こえ、右ひじに激痛が走ってもんどりうって倒れました。警察官は、彼の体には触れないように手錠をかけたそうです。
 包囲された状況の中で、しかも、何の凶器も持っていない人間に対してその体に向けて拳銃を発砲する。こんなことが許されるのでしょうか?ここにも「らい患者は殺しても良い」という偏見と差別意識が働いていたと思います。
(注①)開墾問題
 戦後、山林解放の時のこと、部落外の人間に土地を取られるよりは、開墾適地として申請し、部落が増反許可を出して、部落中に土地を配分した方が良いというAさんの呼びかけで、山持ちの家は皆、開墾適地の申請をした。しかし、増反が認められたのはAさんただ一人だった。
結局、他の人達は土地を失うことになりAさんだけが得をすることになった。その為、Aさんは他の人達から恨みをかう事になった。
 殺された当日は、この問題で会議が開かれAさんは、他の人達から責任を追及され土地を分配するよう迫られたが拒否した為に決裂した。
【2007/02/10 02:07】 | ハンセン病 | トラックバック(0) | コメント(0)
いのちを語る⑭社会的背景「無らい県運動」
 Bさんが、この事件の容疑者から犯人に仕立てられていく背景には、ハンセン病に対する偏見と差別がありました。
 ハンセン病という病気は、結核菌に似たレプラ菌という細菌によって感染しますが、この菌は空気中では生きていけない性質の極めて弱い菌であり、感染力も極めて弱いものです。抵抗力のある人は殆ど発病することはないのですが発病すると末梢神経を侵される為に怪我をしても痛みを感じなくなったり、何かが刺さっても痛みを感じなくなるのです。従って、その傷を治そうとする治癒力も働かない為に化膿が進むということになるのです。そういう、外見的な後遺症が人々に恐怖感を与えることもあったようです。
 また、仏教やキリスト教では「悪業の報い」としての「業病」「天刑病」という間違った考えから「勧善懲悪」を説く法話の道具として引用してさらに恐怖感や嫌悪感を植えつけてきたのです。さらに、国は「国体を弱体化させる病」として絶滅政策を実施してきました。
明治維新後、明治憲法下では天皇を現人神として崇め神国日本として富国強兵策を推進してきました。従って、国体を弱体化させる病、穢れた病として排除の対象とされました。そこで起こったのが「無らい県運動」であります。
 昭和18年、アメリカのファーゲット博士がプロミンという結核の薬がこの病気に効果があり完全治癒を確認し、終戦の年には我が国にも伝わり、21年には我が国でも製造されるようになつて「不治の病」ではなくなったのです。
 昭和26年には厚生省が療養所の拡充を図りベット数を大幅に増やしたのですが入所する人は少なく空き部屋がたくさんあるという状態になったのです。
「予算を取って拡充した施設に患者がいない」というのでは面子が立たない。そこで再び起こったのが「無らい県運動」で患者の強制収用でありました。
 この年の11月の参議院厚生委員会では「癩予防法の廃止」が論議されました。ところが、参考人として呼ばれた、菊池恵楓園の宮崎松記、多磨全園の林芳信、長島愛生園の光田健輔、以上の三園長は、更に予防法を強化することを訴えたのです。その結果、本来、廃止されるべき予防法が「強制隔離と懲戒検束権」が更に強化されると言う結果になり「癩予防法」から「らい予防法」に変わって「近き将来本法の改正を期す」という付帯決議がされて平成8年3月31日まで続くことになったのです。
この時期に、起きたBさんが容疑者にされた事件はハンセン病者にとっては最悪の時期であったと言えましょう。
当然、社会の中の偏見差別は酷くなる一方だったようです。それが、「あいつだったらやりかねない」とか「らい患者なら死んでも構わない」という偏見があったのです。
 狭山事件の報道もこの事件の当時の報道も「犯人」と決め付けたような報道がありました。それは、当時の社会的風潮を表しているのです。
【2007/02/08 15:30】 | ハンセン病 | トラックバック(0) | コメント(0)
いのちを語る⑬悲劇はダイナマイト事件から始まった。
 1951年(昭和26年)8月1日午前2時ごろ、熊本県の県北のある村でAさん(50歳)宅に、直径3センチ、長さ1.8メートルの竹にくくりつけられたダイナマイトが投げ込まれAさんと次男4歳が軽傷を負った。
 この事件の犯人として逮捕されたのが同村に住むBさん(29歳)であった。
 当時、村役場の職員であったAさんが県衛生課に対して、Bさんがハンセン病者であると密告したことに対する恨みで反抗に及んだものとして逮捕され、容疑は、殺人未遂と火薬類取締法違反であった。
 翌年6月、熊本地裁の菊池恵楓園での出張裁判で懲役10年の判決を言い渡された。これに対して、Bさんは、あくまで無罪を主張し福岡高裁に控訴したが棄却された。この裁判で、有罪の証拠として採用された、爆破に使ったとされる導火線や紐などと同じものがBさんの自宅から発見されたことになっていた。しかし、Bさんの家族の話によると「家宅捜索の時には何も発見されなかったが後日、警察に呼び出された時に『自宅から発見された』と言ってそれらの『証拠物件』を見せられ驚いたと」と話している。
 このダイナマイト事件でおかしな事は、Bさんはダイナマイトを扱った経験も知識もない。家庭の事情で小学校にもまともに行っていないので読み書きができなかった。その人がダイナマイトを手に入れることが出来るはずもなく使い方も知らなかった。
 一方、被害者とされるAさんはダイナマイトを使った経験がありダイナマイトの入手も可能であった。(自作自演という説もあった)
 この事件の構図は、狭山事件にも似ている。1回目の家宅捜索の時に発見されなかった「万年筆」が鴨居の上から発見されたがインクの種類が違っていた。しかし、これが有罪の証拠として採用され容疑者の石川一雄さんは有罪になった。
 私は、この二つの事件には「ハンセン病と被差別地区に対する根深い偏見と差別」が根底にあるとしか思えないのです。つづく
 
【2007/02/07 01:54】 | ハンセン病 | トラックバック(1) | コメント(1)
御立岬の夕陽
20070207005945
午後から水俣市にお悔やみに行きました。帰途、芦北町の御立岬公園に寄って温泉に入って来ました。写真は天草の島に沈む夕陽です。真っ赤な夕陽でしたが携帯のカメラですからあまり良く撮れてないのは残念です。ここの温泉は潮温泉ですから少し潮の香りがします。天草を望む景色は素晴らしいです。お奨めします。
【2007/02/07 01:02】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
いのちを語る⑫処刑台に消えた命。何故今「新・ あつい壁」か
 現在、撮影が進められている映画「新・あつい壁」のモデルになっている事件は、熊本県内のある村で実際に起きた事件であります。この事件の背景には、国と地方自治体が進めてきたハンセン病に対する偏見から行われた「無らい県運動」が深く関っています。
 証拠の捏造、関係者の証言の捏造さえ官憲の手によって行われ、裁判の過程でも裁判官、検察官、裁判所書記官、被告人を弁護するべき立場の国選弁護人さえ被告人を犯人と決めつけ死刑台に送ることを決めてかかっていたと言われています。
 当時、裁判に関った元裁判所書記官が退官後に、この映画の製作上映実行委員会委員長に「あの裁判は、検察官、裁判官、国選弁護人、私達書記官さえ被告人を犯人と決めつけ、ボロギレのように扱いました。裁判官の指示で証拠品の被告人の肌着を、私は割り箸で挟んで裁判官に見せました。まさに、彼をボロギレのように扱ったのです」と涙ながらに話されたそうです。
 私は、熊本刑務所の教誨師をしておりますが、先輩の教誨師の先生に死刑執行当日、職務命令で福岡拘置所に護送し処刑の瞬間に立ち会った元刑務官(既に死去)がその時の様子を生々しく語ってくれたそうですが「あの死刑執行は、絶対におかしかった」と言っておられたそうです。
 この事件と映画について何回かに分けて書いてみます。
【2007/02/05 09:24】 | ハンセン病 | トラックバック(0) | コメント(0)
いのちを語る⑪親切の一味
 私は、地元の小中学校の不登校児童生徒の自立支援、問題行動(非行傾向)の子供達の支援事業の手伝いをしています。その活動の中で小学校の先生から驚くべき話を聞きました。
 遠足の弁当にカロリーメイトを二個弁当箱に入れて持たせた保護者がいたそうです。驚いたこの先生は、母親に電話をして「せっかくの遠足ですからお弁当を作ってあげてくれませんか」とお願いしたそうです。それに対して返ってきた返事は「先生、この頃のカロリーメイトは色んな味がするんですよ」とまたまた驚くべき答えが返ってきたそうです。
この話を聞いてただただ唖然とするばかりでした。
この親は、日頃からどんな物を食べさせているのだろうか?もしかしたら・・・レトルト食品ばかりでは・・・等と不安になります。もしかしたら料理をしたことがないかもしれない・・・不安は募るばかりです。
こんな親が子供から殺されるのかもしれません・・・包丁を使っている親を見たことがない子は「包丁は親を殺す時に使う物だ・・・」等と思っているかもしれません。怖い話です。
 昭和39年7月18日、小学校4年生の時、母は亡くなりました。乳癌から骨髄、肝臓まで転移してしまったのでした。亡くなる年の4月、歓迎遠足がありました。その時、母は熊本の済生会病院に入院しておりましたが、遠足の前日、主治医の先生の外泊許可を貰って帰ってきてくれ弁当を作ってくれました。母は主治医の先生に「明日は子供達の遠足です。弁当を作ってあげたいから外泊させてください」とお願いしたそうです。先生は「あなたの体ではとても無理ですよ」と諦めるよう言われたそうですが「明日、弁当を作ってやらなければ私は二度とあの子達に弁当を作ってやることはできません。どうか、外泊を認めてください」と無理を言って帰ってきてくれたのでした。
 遠足の当日、二つ上の兄と私は、母が作ってくれた美味しい弁当を持って遠足に行くことができました。
 母の弁当には、他の誰も入れることのできない調味料が入っていたのです。その調味料こそ、親が子を思う切なる思い・・・「親切の一味」だったのです。
それから三ケ月後、母はかけがえのない教えを残してこの世を旅たって行きました。私も、中学・高校時代非行に走りそうになった(走っていたのかもしれません)時に、それを止めてくれた一つの要因はこの母の優しさであったと思います。
 道元禅師は典座教訓(禅寺で厨房の仕事を任される徳の高い和尚さんを典座(てんぞ)と言います)の中に料理をする心得として「子を思うこと親念切々の至りなり」と親が子を思う切なる思いをもって料理を作りなさいと説いておられます。
 この頃は、遠足に弁当屋さんやコンビにから弁当を買って持って来る子供達が増えているそうですが、遠足の時ぐらい、手作りのお弁当を持たせて欲しいものです。
 親の真心の篭った料理が子供を健やかに育てていくのではないでしょうか。
【2007/02/03 00:46】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
映画「新あつい壁」記者会見がありました。
20070202222002

 鹿児島から帰って、午後1時から、菊池恵楓園で映画「新あつい壁」実行委員会の記者会見がありました。報道関係者が取材につめかけており夕方のニュースでも報道されていました。
 残念ながら、会場が狭かったので私は後方で控えておりました。
俳優は、ケーシー高峰さんと高橋長英さん、趙和さんの三人が出席してくれました。
 裏話をひとつしますと、会場について小用の為にトイレに駆け込みますと直後に高橋長英さんが隣に立たれて連れしょん・・・(笑)になりました。
 高橋さんが「寒いと近くてですね」と話しかけて来られて「本当ですね・・・あっ・・・俳優さんですね?(名前が出てこない)」「そうです」と笑顔で返事してくれまして「この度はお世話になります。私は、実行委員会の世話人をしております藤井です。どうぞよろしく」とご挨拶を致しました。
「いやぁ・・こちらこそお世話になります」と高橋さん。初対面で臭い仲になりました(爆笑)やっぱりケーシーさんも高橋さんも近くでお会いすると・・・私もですが年取りましたね・・・。
 ハンセン病問題啓発のための素晴らしい映画が出来そうです。
 写真は俳優さんと左から志村さん、坂本実行委員長、中山監督。
【2007/02/02 22:21】 | 新あつい壁 | トラックバック(0) | コメント(0)
鹿児島出張でした。
20070202221905

 昨日は、午後一時半から鹿児島で第11回部落解放九州ブロック共闘会議の総会が開催されましたので出席してきました。
県連副幹事長の代理で民主党熊本県連合会の代表として出席したのですが久しぶりに部落解放運動の会議に出る機会をいただき懐かしい人たちともお会いすることができて好い機会でありました。
 私自身も、人権問題の専門家として各地で講演しておりますが今回は、鹿児島県内で活躍しておられる同和教育推進教員3人による人権漫才を1時間20分間も聞かせていただきましたが。六曜迷信、数字(4・9)などの偏見と囚われ、子供や高齢者差別、女性差別、人種差別、職業差別、部落差別などを分かりやすくコントで解説してくれる漫才には大笑いしながらも人権問題の重要さを再確認しました。
 写真は、今朝方、ホテルの正面に櫻島の初冠雪が見られましたので携帯電話で撮影したものです。
【2007/02/02 22:20】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)


藤井慶峰の日々を綴るブログです。法泉寺のHPへ

プロフィール

藤井慶峰(ふじい けいほう)

Author:藤井慶峰(ふじい けいほう)
1954(昭和29)年5月、宇土市生まれ。
 ペットは愛犬レオとルナ(10年前に捨てられていた雑種犬ですが気が利く我が家の番犬です。レオはオスで門番をしています。お参りの人や用があって来た人は笑顔で迎えますが、怪しい人には吠えます。但し、夜は見知らぬ人には吠えますのでご注意。(噛みはしません)八幡大学第2部法律学科卒業、法泉寺26世住職 大本山総持寺布教師 曹洞宗九州管区教化センター布教師 九州四十九院薬師霊場会理事 熊本市人権啓発推進総室講師 保護司 熊本刑務所教誨師 平成義塾熊本前塾長 ハンセン病市民学会宗教部会世話人 人権啓発映画「新あつい壁」製作上映実行委員会事務局世話人  環境ネットワーク熊本会員 宇土の文化を考える市民の会世話人 不知火竜馬会会員 自殺防止ネットワーク風熊本相談所 
 宇土市議会議員(3期目)

(好きな言葉)希望は高く頭は低く   実るほど頭の下がる稲穂かな    身を削り 人に尽くさん すりこぎの その味知れる 人ぞ尊し
(尊敬する人)お釈迦様  マハトマ・ガンジー  横井小楠  坂本竜馬  吉田松陰 田中正造 西郷隆盛 小松帯刀 天璋院篤姫
(著書)美しい地球と未来を子供たちに ㈱ぱんたか刊 1300円 この本を送料・税込み1000円で差し上げます。

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